明らかになった話
〜真実はいつも そのあとで〜



私は幼少のころ絵本で多くを学びました 
特に人生に大きく影響を与えたのが次の3つです。『ぐるんぱの幼稚園』『しょうぼう自動車ジプタ』『かわいそうなゾウ』です。
なかでもぐるんぱの幼稚園は現在65版にもおよぶ大ベストセラーになっています。   

『ぐるんぱの幼稚園』では友情の大切さを。

『しょうぼう自動車ジプタ』ではあきらめない勇気と希望を。

『かわいそうなゾウ』では優しさと命の貴さを。
学びました。    

 1ヶ月程前に中図書館で意外なものを見つけましたそれは1998年8月30日の『東京朝刊』の記事です  
私は内容を見て愕然としました 幼いころ好きだった『かわいそうなゾウ』の話にでてくる 周りの動物達の記事でした。 
私は子供の時に ”本は読むもの”という教育を受けつつありましたが あの絵本たちとの出会いによって
”本は読んで感じるもの”ということを学びました。  
 
ご存知ない人のために『かわいそうなゾウ』の話を記載いたします。 
(原本はオールひらがなですので漢字を織り込んでおきます)                 

「かわいそうな ぞう」 土家由岐雄・文  1951年    
上野の動物園は、桜の花盛りです。風にぱっと散る花。お日様に光り輝いて咲く花。
お花見の人たちがどっと押し寄せて、動物園は、砂埃を巻き上げて混み合っていました。 
象の檻の前の広場では、今、2頭の象が、芸当の真っ最中です。 
長い鼻を、天に向けて、日の丸の旗を振ったり、カラランランと鈴を振り鳴らしたり、
よたよたと、丸太渡りをしたりして、大勢の見物人を、わあわあと喜ばせています。 
その賑やかな広場から、少し離れた所に、一つの石のお墓があります。
あまり気の付く人はありませんが、動物園で死んだ動物たちを、お祭りしてあるお墓です。
お天気の良い日は、いつも、暖かそうに、お日様の光を浴びています。 
ある日。 動物園の人が、その石のお墓をしみじみと撫で回して、わたくしに、哀しい象の
物語を聞かせてくれました。 今、動物園には、三頭の象がいます。
名前を、インデラ、ジャンポー、メナムといいます。けれども、その前にも、やはり三頭の
象がいました。名前を、ジョン、トンキー、ワンリーといいました。 
 その頃、日本は、アメリカと戦争をしていました。戦争がだんだん激しくなって、東京の街には、
毎日毎晩、爆弾が雨のように振り落とされてきました。 その爆弾が、もしも、動物園に落ちたら、
どうなることでしょう。 檻が壊されて、恐ろしい動物たちが街へ暴れ出したら、大変なことになります。
そこで、ライオンも、トラも、ヒョウも、クマも大蛇も、 毒を飲ませて殺したのです。 
三頭の象も、いよいよ殺されることになりました。 まず第一に、いつも暴れん坊で、言う事を聞かない、
ジョンから始めることに成りました。 ジョンは、ジャガイモが大好きでした。ですから、毒薬を入れた
ジャガイモを、普通のジャガイモに混ぜて、食べさせました。けれども、利口なジョンは、
毒のジャガイモを口まで持っていくのですが、すぐに長い鼻で、ポンポンと、遠くへ投げ返してしまうのです。 
仕方なく、毒薬を身体へ注射することになりました。 馬に使う、とても大きな注射の道具と、
太い注射の針が支度されました。 ところが、象の身体は、大変皮が厚くて、太い針は、
どれもぽきぽきと折れてしまうのでした。仕方なく食べ物を一つもやらずにいますと、可愛そうに、
十七日目に死にました。 続いて、トンキーと、ワンリーの番です。この二頭の象は、いつも、
可愛い目をじっと見張った、心の優しい象でした。 ですから、動物園の人たちは、この二頭を、
何とかしてけたいと考えて、遠い仙台の動物園へ、送ることに決めました。 
けれども、仙台の町に、爆弾が落とされたらどうなるでしょう。仙台の街へ、象が暴れ出たら、
東京の人たちがいくらごめんなさいと謝っても、もうだめです。そこで、やはり、上野の動物園で
殺すことになりました。 毎日、餌をやらない日が続きました。トンキーも、ワンリーも、
だんだん痩せ細って、元気が無くなっていきました。時々、見回りに行く人を見ると、よたよたと
立ち上がって、「餌をください。
」「食べ物をください。」と、細い声を出して、せがむのでした。 
そのうちに、げっそりと痩せこけた顔に、あの可愛い目が、ゴムまりのようにぐっと飛び出してきました。
耳ばかりが物凄く大きく見える哀しい姿に変わりました。 今まで、どの象も、自分の子供のように
可愛がってきた象係の人は、「可哀相に。可愛そうに。」と、檻の前を行ったり来たりして、
うろうろするばかりでした。 すると、トンキーと、ワンリーは、ひょろひょろと身体を起して、
象係の前に進み出たのでした。 お互いにぐったりとした身体を、背中で凭れ合って、
芸当を始めたのです。 芸当をすれば、昔のように、餌がもらえると思ったのです。 
トンキーも、ワンリーも、よろけながら一生懸命です。 象係の人は、もう我慢できません。
「ああ、ワンリーや、トンキーや。」と、餌のある小屋へ飛び込みました。そこから走り出て、
水を運びました。餌を抱えて、象の脚に抱きすがりまた。 動物園の人たちは、みんなこれを
見てみないふりをしていました。 園長さんも、唇を噛み締めて、じっと机の上ばかり見つめていました。 
象に餌をやってはいけないのです。水を飲ませてはならないのです。どうしても、この二頭の象を
殺さなければならないのです。 けれども、こうして、一日でも長く生かしておけば、戦争も終わって、
助かるのではないかと、どの人も心の中で、神様にお願いをしていました。 けれども、トンキーも、
ワンリーも、ついに動けなくなってしまいました。じっと身体を横にしたまま、動物園の空に流れる雲を
見つめているのがやっとでした。 こうなると、象係の人も、もう胸が張り裂けるほどつらくなって、
象を見に行く元気がありません。他の人も苦しくなって、象の檻から遠く離れていました。 
ついに、ワンリーは十幾日目に、トンキーは二十幾日目に、どちらも、鉄の檻にもたれながら、
やせこけた鼻を高く伸ばして、万歳の芸当をしたまま死んでしいました。「象が死んだあ。象が死んだあ。」 
象係の人が、叫びながら、事務所に飛び込んで飛び込んできました。拳骨で机を叩いて、泣き伏しました。 
動物園の人たちは、象の檻に駆け集まって、みんなどっと檻の中へ転がり込みました。
象の身体にとりすがりました。象の身体を揺さぶりました。 みんな、おいおいと声をあげて泣き出しました。
その頭の上を、またも爆弾を積んだ敵の飛行機が、ごうごうと東京の空に攻め寄せてきました。 
どの人も、象に抱きついたまま、こぶしを振り上げて叫びました。
「戦争をやめろ。」「戦争をやめてくれえ。やめてくれえ。」
 後で調べますと、盥位もある大きな象の胃袋には、一滴の水さえも入っていなかったのです。
その三頭の象も、今は、このお墓の下に、静かに眠っているのです。 動物園の人は、目を潤ませて、
私にこの話をしてくれました。
そして、吹雪のように、桜の花びらが散り掛かってくる石のお墓を、いつまでも撫でていました。



戦争は動物たちにも非情
[1998年08月30日 東京朝刊] より抜粋
昭和18年(1943年)9月4日午後、東京・上野動物園で空襲に備えて処分された動物たちの慰霊祭があった。
逃げ出して市民に危害を加えることを事前に防ぐという大義名分があったものの、処分が公表されると、
「かわいそうだ」という声が巻き起こった。 当時、歩兵第236連隊の一員として中支戦線にいた成岡正久
(戦後高知市議会議員)は、「ヒョウと暮らす男」として各部隊で有名だった。戦後、成岡が出版した「豹と兵隊」
(芙蓉書房)によれば、16年2月、武漢に近い湖北省陽新県の村に出動したとき、近くの牛頭山にヒョウが出没
する話を聞き、退治に行った。親ヒョウは見つからなかったが、洞穴で生後20日前後の子供のヒョウ(オス)を見つけ、
部隊に持ち帰る。隊員たちが一緒に面倒をみて、一カ月もたたぬ間に部隊のマスコットとなった。 成岡にはとて
もよくなつき、一緒に寝ていた。半年もするとかなり大きくなり周囲を威圧する雰囲気があった。それでも兵隊の中で
育ったためカーキ色の軍服を着た日本兵にはまったく従順だった。警備にあたる兵士らにとって心強い存在で、
食べ物をねらうイヌやネコを追い払うので、炊事係からは「衛兵」と呼ばれていた。ところが、部隊の作戦参加で
飼うことができなくなり、上野動物園に引き取られる。 そのヒョウ「八紘」が動物園にやって来たのは17年7月。
園では出征兵士が育てたヒョウであることをPR。人気を集めていたが、18年8月18日に処分された。
この直後、成岡は休暇で帰国、電報で八紘の死を知らされる。成岡は「楽しかった陽新時代のハチ(八紘)の
姿を思いだし悲嘆にくれた」と書いている。八紘ははく製にされる。 逃げ出すと危険と思われる動物の処分は
8月17日から始まっていた。処分を最終的に決定したのは昭南(シンガポール)市長から東京都長官に
就任したばかりの大達茂雄(戦後文相)。昭和31年に出された伝記「大達茂雄」(同伝記刊行会)によれば、
彼は空襲でおりが壊れ猛獣が逃げ出す事態をもっとも心配していた。 「人間は一発の爆弾よりも一頭のトラの
出現を恐れる」。しかし、「これが都民に知れ渡ったらどんな影響がでるか」「大人なら話せばわかるだろうが、
子供には理屈で納得させることができない」。一刀両断、決心のぐらついたことのない大達がこのときは幾日も考え、
「やむを得ない」という結論に達する。 8月半ば、公園課長の井下清が長官室に呼ばれた。
このころ動物園では非常時の場合の準備も進めていた。長官は「気持ちはわかるが、どっちみち半年かそこらで
処分しなければならぬ。その間どんな不測の事態が起こるともかぎらないのだから、思いきっていまのうちに」と
指示したという。 野動物園の責任者は戦時中ずっと園長代理をつとめた福田三郎(戦後飼育課長)。
彼は戦後出版した「実録上野動物園」(毎日新聞社)の中で、「8月16日は私にとって忘れられない日になった」と
書いている。この日昼前、福田は電話で井下にすぐ来るようにといわれた。「猛獣処置のことに違いない」と
直感して、すでにできていた一覧表を持っていった。陸軍獣医学校の古賀忠道(園長だったがこのとき応召中、
戦後東京動物園協会理事長)も来ていた。 福田の記録によれば、井下の指示は「一カ月以内に毒殺せよ」だった。
射殺は銃声がするために禁止。翌朝、福田は職員全員を集めて指示を伝えた。「秘密だから家族にも話すな」と
付け加えた。 
17日の閉園後、最初に毒殺されたのはメスのホクマンヒグマ。3グラムの硝酸ストリキニーネを入れた
サツマイモを与えると、22分後、絶命した。だが、実際は毒入りのえさを食べなかったことなどから、
ほかの方法で処分された動物のほうが多かった。 ツキノワグマは首にロープを巻き付けて数人がかりで引っ張った。
15分で絶命。クロヒョウには先にワイヤロープの付いた棒を使い、首にかけた。4分30秒で絶命。ガラガラヘビは最初、
頭部を針金で突き刺し、翌朝けい部をひもでぐるぐる巻きにして殺した。
生きているニワトリなどしか食べないニシキヘビの場合は解剖刀を使用した。エチオピア産のライオンの場合は、
絶食させたあと、毒入りの肉を与え、最終的に心臓部をやりで刺した。 
よく知られているようにゾウは「ジョン」「花子」「トンキー」の三頭がいた。三頭はいずれも絶食によって処分されるのだが、
慰霊祭のときには、花子とトンキーがまだ、生きていた。福田は井下から「ゾウが残っていることは長官には
内緒にしろ」と指示される。ゾウは幕の後ろに隠された。 これより先、おとなしいトンキーについては、
ゾウがいなかった仙台動物園に疎開させることが現場サイドでほぼ決まっていた。貨車で輸送することにし、
動物園では上野署からゾウを駅まで歩かせる許可も取っていた。仙台動物園の関係者も上京、スタンバイした。
しかし、大達はこれを一蹴した。 「上野動物園百年史」は、「このように強い長官の態度の背景にはまだ、
戦争に勝っていると思っている国民に対し、戦争はそんなになまやさしいものではないことを自覚させ、警鐘を発する
考えがあった」という内容の古賀の言葉を紹介している。 処分された動物たちの中には、高松宮殿下、
エチオピアのハイレセラシエ皇帝らから寄贈された動物たちも含まれていた。 ところで、動物園には軍関係者からの
寄贈が多かった。寺内寿一元帥はカニクイザル、オオトカゲなど。
東条英機首相と杉山元参謀総長の名前でチョウセンツキノワグマやマンシュウイノシシ、
また、8月14日には駆逐艦「風雲」からキスカ島撤退作戦で持ち帰ったホッキョクギツネが寄贈された。
もちろんこれらの中からも処分される動物が出る。9月23日までに殺されたのは27頭にのぼった。 
はく製となった八紘は昭和24年、元飼い主の成岡からの強い希望によって彼の元に返される。
現在は高知市の子ども科学図書館に展示されている。     

言葉もない事実が明らかになって とてもショックを受けました。
戦争でやむなく犠牲なった動物達の冥福を祈ります。



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